「人は何者にでもなれる、いつからでも。」について

雑記

どこかで聞いたことがあるって方もいるんじゃないでしょうか。これはかのYouTube大学で500万人以上の登録者を誇る中田敦彦氏の言葉です。

先日「松本人志氏への提言」という動画を出して、お笑い界を震撼させたのも記憶に新しいですね。これに対してはいろんな意見があると思います。面白いという感覚は誰にも生まれながらにしてもっているもので、誰にも奪われることがないものですよね。それを追求するお笑いはその人のバックグラウンドや価値観に大きく依存するものだと思うし、とても身近に感じされる一方でどことなくつかみようのないそんな感覚。だからいろんな意見が交錯しているのだと思います。

前置きが長くなりましたが、今回はこの提言の内容に対する考察をするわけではありません。もっとも、私はお笑いには詳しくないのでとてもおこがましくてできません。今回、中田氏がモットーとして掲げる「人は何者にでもなれる、いつからでも。」という言葉について思うところがあって駄文を書き連ねていきたいと思います。

「人は何者にでもなれる、いつからでも。」は本当か?

結論から述べます。私の意見は「フィジカルが関係ないものだったら、本当」です。ここでいうフィジカルというのは体格や筋肉、ルックス、身体能力等のことです。

フィジカルが重要なもの。例えばスポーツ選手や声質を売りにする歌手、またルックスが重視されるアイドルなどはフィジカルがものをいう世界だと思います。養老孟司先生が体こそ個性だ、というようにフィジカルは生まれながらによるものが大きいです。

一方、フィジカルが関係ないもの。例えば勉強や音楽センス、語学力など。これら脳のみを使い体格差は関係ないものは、誰にでも獲得可能だと私は本気で考えるようになりました。

世の中で天才と称される人がいますよね。例えばアインシュタイン。光の速度は一定という仮定のもと、時間と空間は相対的に変化するということを導き出した相対性理論によって、世界の捉え方は根底から覆りました。今の科学技術に多大な影響を及ぼしたこの論文を発表したのは若干26歳だったと言います。この功績を見たら誰しもが彼を天才と称するでしょう。当時の研究者も彼こそが天才だと考えました。アインシュタインの死後、彼の脳は解剖され脳組織が世界中で配布されてどれほど優れた脳を持っているのかと研究されたそうです。その結果、驚くべき事実が発覚しました。それは

驚くべき発見が何もなかった

ということです。つまり、アインシュタインをもってしても基本的には平均的な脳の持ち主だったようです。唯一特筆すべきほど発達していたのはグリア細胞の数。一般的な成人男性の2倍ほどあったそうです。グリア細胞とはニューロンの軸索の周りにまとわりつくように存在しており、これが多いと記憶を想起するスピードが上昇していわゆる頭の回転が速いという状態になります。じゃあそのグリア細胞が生まれつき多くて、それが天才たらしめているのではないか?ということになるわけですが、どうやら違うようです。かつて脳細胞は年を取ったら減っていく一方と思われてきましたが、最近の研究によるとこのグリア細胞は訓練することで後天的に増やせるものだそうです。それも、70歳からでも。

要するに私が言いたいのは

天才は存在しない

ということです。同じ人間である限り。私が思うに天才とは人間が作り上げた虚構に過ぎません。ホモサピエンス全史の受け売りですが、人間の特徴は虚構を信じる力を持つことです。他の動物よりも脳細胞が圧倒的に多くなった結果、情報の入力と出力を脳の内部で完結できるようになり、それが妄想や虚構を作り上げることができるようになったようです。それによって神様を信じるようになったり、宗教が発展してきました。他の動物は神様を信じていません。

大学のとある授業で聞いた話ですが、人間はシンプルな事象を勝手に妄想と幻想で難しく考えて勝手に意味を加えたりするのが好きな生き物だという話を耳にしました。例えば、虫の走光性などがあります。夜の電灯に虫がたかっているのを目にしたことがあると思います。あれを見て、我々は「虫は明るいところが好きなんだな。」などと思うわけです。しかし、実際は虫は「あっちに光があるぞ。そっちに向かおう。」などという高尚なことを考えていません。虫の目の細胞と羽が直接接続されていて、その明るさに応じて羽の感度が変わって結果的に光のある方向へ体が行くようになっているだけだということが実験的に示されています。本当はとてもシンプルなんです。それを人間はいろんな意味を無意識に加えてしまうという。本当はわれわれと大差のない人間も、勝手に妄想と幻想で高尚なものに仕立て上げて、天才といってしまっているわけです。

天才と呼ばれる人と一般人の違い

天才と一般人に大差がない、という意見を先ほど述べたわけですが、実際問題天才と思われている人はいるわけです。何が普通の人と違うのでしょうか?それは

やっているか、やっていないか

だと思います。本当にこれだけか?と思われるかもしれないですが、本当にこれだけだと思います。天才と称されている人は本当にやっていて、ただその過程を我々が知らないだけなんだと思います。やっていくことで、それに適応する形でグリア細胞が生成されて一般人より発達した脳を獲得するわけです。

藤井聡太氏のご活躍が目覚ましいですよね。でも私は彼のような人間はこの時代において生まれるべくして生まれた存在だと考えています。彼の将棋のスキルの身に着け方の特徴として、将棋AIを積極的に活用していたということです。将棋AIができるまでは将棋の特訓は対人で行うしかありませんでした。対人だと相手が一手を考える間は待つ必要があるため、一対戦あたりの時間がかかってしまいます。将棋AIだと待ち時間もないですし、好きな場面から始めたり待ったをかけたりできます。つまり、場数を圧倒的に稼げるわけです。藤井聡太氏の場数は若くしておそらくトップレベルのプロ棋士の経験するそれを凌駕しているんだと思います。彼と全く同じ環境に生まれ、同じように将棋にいそしめば彼のような人間が育つのも驚くべきことではないのだと思います。誰しも生まれた時点では基本的にそのポテンシャルはある。ただそのような環境に生まれ、彼のように努力を重ねることができる人が少ないのも事実です。それこそが彼のすばらしさを裏付けていることになるのだと思います。ただ、それを天才という言葉で片づけてしまうのは違うと思うわけです。

なぜこんな記事を書いたのか

この記事を書いた動機の一つには自戒があります。このような考察を経てもなお天才という言葉を使ってしまう自分に対しての自戒です。天才は一般には褒め言葉だと思いますが、はたして実際に使うときにそれはその人を褒めるために使っているのでしょうか?

しばしば私はその人を天才と称するとき、その人は天才で自分と違うんだと思い込みたいから使ってしまう節があるように思います。その能力は天から授かったもので、自分が努力して手に入るものではない。勢いよく白旗を上げる潔さに快感すら覚えているような気がします。つまり、天才の存在を認めることで自分は努力することから逃げているんです。努力しない大義名分を作り上げるために、天才という存在を利用している。これって、すごく自分勝手で失礼なことだと思うようになりました。

「人は何者にでもなれる、いつからでも。」

この言葉は中田氏は人を励ますために発言したものと思われます。でも私は、叱られているような耳の痛い思いをしました。やれば、行動を起こせば、何者にでもなれる。だからなりたいものがあるのであれば、達成したいことがあるのであれば、今の自分の能力を理由に努力することから逃げてはいけない。そう思った今日この頃です。

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